「10万字インプット・5000字アウトプット」の記事を読んで頭に浮かんだことを、言葉にして伝えようとしてみる
たて続けに以下のようなブログ記事を読みました。
▼ソーシャル疲れに対する処方箋としての「10万字インプット・5000字アウトプット」:[mi]みたいもん!
▼R-style » 「10万字インプット・5000字アウトプット」について考えてみた
このお二人に文章で絡んでいくのは、疾走するF1レースの中にママチャリで紛れ込むようなものじゃないかとも思われるのですが、珍しくふわっと浮かんできたことがあったのと、そのことを書くことこそがこれらの記事に対する礼儀なのかもしれないなということで。
第一印象的なやつ
厳密にいうと私は文章を仕事にしているというわけではないので「10万字インプット・5000字アウトプット」から受け取る感覚がお二人とは少し違うかもしれないのですが、インプットとアウトプットのバランスという意味では、なんだかしっくりくるものがありました。
例えば何万冊マンガを読んだところで絵は上手くならないというお話。
また描いたところでそれで終わりではなく、常にインプット(もちろんマンガのみならず)をし、そこからアウトプットすることが必要とか、そんな風に私は感じました。
次にインプットとアウトプットのバランスのお話。
上の2つの記事を読まれた方は、自分にとってインプットとアウトプットのどちらが足りないと感じましたか?
いしたにさんは
頭を生産的な方向や良好なコミュニケーションに使えないときというのは、要するにインプット不足なんだと思うんですよね。
というように、ご自身のインプット不足を感じていらっしゃいました(というよりもアウトプット力が圧倒的なのだと思います)が、私自分の場合は逆に自分のアウトプット不足を感じました。
例えば本を読み、色々なものを見て、頭にふわっと浮かんだものを「これ」というものにせず流してしまっている感じ。
ですので、ちょうど倉下さんの記事の中の
ともあれ、いいね!を押したり、RTしたり、Yoと送信したりしているだけでは、5000字のアウトプット効果は生まれません。シェアさせていただきます、も微妙なところです。たとえジョークであっても、自分の言葉を発しようとしてみること。それが必要です。
ここの部分にとても共感できたのです。
ともかく自分の言葉にしてみることについても、アウトプットの呼び水は、やはりアウトプットだと感じることがあるんですよね。
例えば1行文章を書いたら、1本線を描いたらその先につながるというか。
で、次に存在感のお話。
人間関係でSNS的なつながりの割合が大きくなった今の、そしてこれからの時代において、その人がその人自身の言葉で何かをアウトプットしているかどうかが、その人自身の存在感につながることがあるよな、と思うのです。
単に、いいね!を押したり、RTしたり、Yoと送信したりしてみても、誰にでもワンクリックでできるその行為は誰がやっても同じで、なんとなくその存在感が薄まっていくと感じるのです。
だからといって、「毎日Facebookに10投稿しろ!ブログを毎日更新しろ!どりゃーー!」ということを言いたいのではありません。
むしろ「ソーシャルに投稿すれば存在感が保てる/投稿しないと存在感が希薄になってしまう」と勘違いしている人が多く、そのことがいわゆる「ソーシャル疲れ」の一因なのではないでしょうか。
それより大事なのは、あなた自身が大切だと感じている人に、大切だと感じていることを言葉で、態度で示せているかどうかのはずです。
それだって立派なアウトプットなわけで。
というわけで、ちょっとソーシャル疲れかなと感じたら、もっと身近な、家族に、恋人に、友人に、何か思いを伝えることから始めてみてもいいかもしれません。
存在してるって、一周回ってやっぱりそういうことだと思うのです。
最後に、引用記事では「読もうと思って読めていない本」を晒していらっしゃいましたが、こちらはアウトプットの呼び水にどうぞということで、来週開催予定のワークショップの情報を貼っておきますね(笑)
ぺんてる×PFU×ハッピーラクガキライフ「思いを伝えるラクガキワークショップ」 on Zusaar
http://www.zusaar.com/event/5487003
いやー、でも「文章だけは絶対書けない」って言い張ってた自分が、こんな風にブログ書くようになってるんだから、わからないものだなぁ。
関連記事はこちら
[milliard]