溺れても泳ぎきった者が掴んだ藁の話
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「溺れる者は藁をも掴む」という諺があります。
今更意味を説明するほどのものではないですが、調べてみるとこんな意味でした。
溺れる者は藁をも掴むとは、人は困窮して万策尽きたとき、まったく頼りにならないものにまで必死にすがろうとするというたとえ。
さて、藁を掴んだ者は溺れるしかないのでしょうか?
藁は本当に全く役に立たなかったのでしょうか?
必死でもがいた記憶
一年と少し前、私は溺れそうになっていました。
もちろんこれはたとえ話で、ちょうどこの時開催された「みんなの推しブログ選手権」にノミネートしていただき、どこか溺れるような必死さだったのです。
▼『みんなのイチ推しブログ選手権』に思うこれからの教育と学び。 #oshi_blog | 切り抜きジャック
ここからの一ヶ月間、私は無我夢中でした。
溺れそうになりながら、ひたすらにもがき、時に手に触れた藁をワシヅカミにして。
なんとか陸にたどり着いた先で見たものは、これまでに見たことのない晴れやかな景色だったことを思い出します。
命からがら生きてきたこれまで
思い返すと、受験だったり仕事だったり、なにかの時期をこんな風に必死にもがいて、その度一応なんとかなって、今ここに立っています。
それで、なんとか泳ぎきった自分に対してそれなりに自信を持つこともできました。自信は気持ちにつながって、時に新しいチャレンジにつながることもありました。
そして、ふと足元を見ると、これまでにつかんできた藁が。
多分、このままじゃいけない
何がきっかけか分からないのですが、ふとそう思ったのです。
自分は泳ぎきった、その自信は確かに大事なもの。
しかし、その掴んだ藁は本当に役に立たなかったのでしょうか?
その藁はゴミとして捨て置かれるものなのでしょうか?
いや、その藁こそが目に見えて手に触れることのできる生還の証なのです。
わらをなう
一本では弱く役に立たない藁も、何本も束ねてなうことで縄になります。
縄が用意できていれば溺れそうになった時、命綱になるかもしれません。
丸太があればイカダを作って、海を渡ることができるかもしれません。
では具体的にどうすればいいのか。
一つには自分のできたことを見返せる形にしておくことです。
行動のログを残すこと、ポートフォリオとして作品を残すこと、こうやってブログを書くこともその一つかもしれません。
自分が、もしくは他人が参照できる形にしておくことです。
もう一つ、できたことを反復し、まぐれではなくすことも大切です。
例えば上手くいった仕事を要素に分解して再現可能にすること、スポーツや勉強で同等もしくはそれ以上の成績をコンスタントに出せるようにすること、とにかく継続して体に染みつけること。
自分のイメージ通りに体を動かしたり、事を運べるようになることです。
器用貧乏とユーティリティープレーヤーの狭間
今回の内容は先日書いたこのエントリの続編のようなものです。
▼ユーティリティプレーヤーなのか器用貧乏なのか。ジャックはしばし考えた。 | 切り抜きジャック
友人の一言から書いてみたエントリでしたが、ずっと心の何処かに残っていたのでした。
自分自身が器用貧乏と感じてしまう理由は、その成果をそのままで放置してしまうこの性格ゆえでした。
新しいもの好きという言葉でごまかさず、自分は何をやってきて一体何ができるのか、もう一度考えてみる時なのかなぁなんて思ったのです。
これが変な話なのですが、「推しブロ選手権」あたりのエントリを見返していると自分が書いたのか謎なくらい冴えてる時があるのです。
多分あの時のプレッシャーみたいなものは、いい意味で自分を成長させてくれたんだと感じています。
いつかくるかもしれない、また違った試練を乗り越えるために藁を縄にしてしっかりワシヅカミしておこうと思ったのでした。
今回のワシヅカミポイントは
- 根拠のない自信だけでなく、成果をきっちりと記録に残すこと
- まぐれではなく、きっちりと自分で再現可能にすること
- いつ何があってもいいような、心の準備
の3つ
気づけば周りに藁がパラパラ落ちていませんか?
「泥棒を捕らえて縄を綯う」というように、縄が必要な場面はいきなりやってくるものです。
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